なりふり構わず自分の思考を放流しながら書き散らかすことが楽しくて楽しくて、そしてそれができる時間が取れることが嬉しくて嬉しくて仕方ない(すやぴーと寝てくれてる赤子よ、ほんまありがとうやで…)ので、今日もせっせと書き出したのだけど、なーーんか書き進まない。
書いては消し、書いては消し。あれ?私は何をテーマに書いてたんだっけ?なんかこの言葉づかい変かな?あれ?あれ?あれ?気付いたら貴重な貴重な1時間すぎてる!なのに、画面には2パラグラフしか書かれてない。おかしいぞ。
と焦りながら考えてみたら、そうか。ぜんぶワードプレスのせいだ。と気付いた。(ワードプレスとは私がこのブログを書いて投稿してるソフトのこと。)
そこで、ワードプレスを一旦閉じた。普段メモ書きに使っているLogseq(ログシーク)というアプリを代わり立ちあげ、今の状況を書きつけた。
以下私のメモから引用:
- ワードプレスの画面を開くとなりふり構わず書けない
- 「ちゃんとした文章」を書こうとしちゃう
- 読ませることが目的ではなかったはず。 Food for thought を作った目的は、思考の放牧場を作ってやることだったはず。
- [[目的見失いがち]]
- [[形から入ることの問題点は、目的と手段が逆になってしまう所]]
- Logeseq にはガンガン書ける。あくまでも自分用のメモ書きという前提があるからだろう
- 前提によってこんなにも結果が違うのか [[前提は結果と直結してる]]
- [[ツールによって前提が変わるから、ツールの選び方大事]]
これを書き出すのに3分もかからなかったと思う。でも、同じことをワードプレスの画面上で書こうとしたら、多分1時間、いやそれ以上掛かったかも知れない。それは(上のメモにもある通り)自分の中でワードプレスは「ちゃんとした文章」、誰かに「読ませる」文章を書く場所、という前提があるからだと思う。
過去の二投稿をツイッターでシェアする時「エッセイを書いた」などと言ってしまったのもいけなかった気がする。エッセイ、ってなんかオシャレで、気が利いてて、小粋な、ちょっとした文章。ってイメージがある。
服屋の店員さんが言う「ちょっとしたパーティー」と同じくらいの「ちょっとした」度が求められてる気がしてしまう。そしてそれは、私にとっては大分ちゃんとしてる。
だから、構えてしまうんだと思う。
それから、私の “エッセイ” を読んでくれた人が「素敵な文章」と褒めてくれたのも、構えてしまう一因になってると思う。だって褒められると嬉しいんだもん。超嬉しいもん。だからまた褒められたくて「素敵な」文章を書こうとしちゃってる。つまり、狙ってるの。でも、狙いだしたら、お終いでしょ。だって狙うための場所じゃないじゃん、ここ。
メモに書いた通り、私がこの場所 “Food For Thought” を作った目的は、自分の思考を放牧するため。そして書いて考えることを、なりふり構わず楽しんで練習するため。
でもだからと言って、メモ書きをそのままここにコピペして終わり、というのもなんか違う。だって、誰かさんが読んでくれる(かも知れない)から、やっぱり多少は「ちゃんと」したい。
ここまで書いて気付いたけど、私にとってブログ・本・ニュースレターを書くのは、おめかししてお出かけしてるような感覚なんだと思う。やっぱり大分「ちゃんと」してる。でも”Food For Thought” は、あくまでも、わたしの家。そこに友達を招き入れるような感覚なのかもしれない。というか、そういうスタンスでいます。(といういきなりの宣言。)
どうぞどうぞ、あがって〜!ちょっと散らかってるけど(これでも一応掃除したのよ)、くつろいでってね。
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他の人が書いた「エッセイ」と「日記・日誌」を読むとき、私は大きな違いを感じない。エッセイは根底のテーマがあることが多いのかな?という印象はあれど、どちらも、大きな括りとしては、【個人が個人の視点で切り取る人生のレポート】だと思う。だけど、私が書く側に回ったとき「エッセイ」はやっぱり、およそいき風情を感じてしまう。
なのでこのブログの副題を「徒然エッセイ」から「徒然日記」に変えた。
ラベルという入れ物を変えるだけで、一気に気持ちと姿勢も変わる。パッケージ大事。でもそれは、目的が明確であることが大前提でもある。やっぱり目的の確認大事。あたい、なんでコレやってんだっけ?っていう目が醒める質問を自分にぶん投げる。しかも定期的に。だってすーーーぐ忘れちゃうから、そういう大事なことを、わたしは。
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