書くことは、考えること。そしてそれは暮らしの句読点。なのかも知れない。

珍しく赤子がまとまった時間昼寝をしていたので、私は水を飲むのもトイレに行くのも忘れてエッセイ「Pamを売った」を書き殴った。

人とのやりとり用(LINEとかメールとか)ではない「表向きの文章を書くこと」をモーレツに欲していた私の心は、すぐにトクトクと潤っていった。(喉はカラカラだったけど。)

表現欲や承認欲求が満たされてことで高揚した気分が落ち着いてきたころ、静かな納得感みたいなものが頭の奥でパタンと、音を立てた。

なんで「パタン」という擬音を使ったんだ今わたしは?なんの音だ?と思えば、それは “Closure” の音だったんだと思う。扉が静かに閉まったみたいな。(*Closure/get closure は「物事に自分なりの結末を見出して気持ちに整理がつく」というニュアンスで使われる。)

自分の思いの経緯を文章にすることで、そしてそれを誰かに共有することで、私の中でこの出来事(Pamを売ったこと)は本当の終結を迎えることができたんじゃないかと思う。

書くことでしか “Closure” を得られないのではないか?なんてランボーなことは言わないけれど、書くことでしか得られない “Closure” は、ある。(と断言したけど、異論は多いに認めます。)ということは、書くことは暮らしの中で句読点的な役割を担っているのかも知れない。

なぜかというと、書くことは考えること、だから。

そして、考えることで私たちは暮らしの中で起こる様々な出来事とか現象、気持ちの起伏に小休止をしたり、おしまいを決めたりするんだと思う。

赤子中心の生活は細かな思考・行動の切り替えとミクロの決断の連続で、頭の中のいろんなことが「おしまい」にたどり着けないことが多い。だから、私が書くことをモーレツに欲していたのも納得がいく。きっと私は「思考を完結させるための時間」を求めていたんだろう。と、これも書くこと(ジャーナリング)でやっと気付いた。

ほんとは毎日書きものをして気管が広がるような清々しさを味わいたいけど、まあそうもいかないので、ぼちぼちと、書けるときに書き散らかしていこう。徒然と。

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