日記コンテンツ文化、私はそれを愛と呼ぶぜ

「それって有名な人が書いたの?」

と夫に聞かれた。2023年に下北沢で開催された「日記祭」で買った本を読んでいた時だった。

卵の殻みたいな表紙のど真ん中にサンセリフ体で「2020 1222 → 2021 1230 」と印刷されている。日本語を読まない夫も一瞬で「日誌的ななにかだろう」と推測したようで、冒頭の質問が産まれたわけだ。誰か、すごい人が書いた、だいじな記録なのだろう、と思ったらしい。

私は、この本の著者の名前おろかバックグランドを全く知らない。ということを正直に夫に告白した。

*この本の正式なタイトルは 「モヤモヤの日々」で、宮崎智之さんというライターの方が書かれたものだった。ご著書も多数出版されている、すごい人だ。

私は、下北沢に日記の本だけを取り扱う本屋さん「日記屋 月日」があること、そして先述の「日記祭」では、たくさんの「ふつうの人」が日記ZINEや自己出版した日記本を売っていたこと。さらに、「日記屋 月日」さんでは、集って日記を書き、お互いの日記を読みあう会が存在すること、などを興奮しながら夫に話した。

すると彼は「日記の本って “アンネ・フランクの日記” みたいなやつ?」と聞いてきた。うん、まあ広い意味ではそうなんだけど、でもやっぱちょっと違うか…も。としか答えられなかった。なぜか慌てた私は、エッセイみたいな感じだよ!と付け加えてみたんだけど、お互いあまりしっくり来ていない。気を取り直し「そんなに日記本に需要があるんだね!」と会話を繋げようする彼の涙ぐましい愛情表現の努力を脇目に、私はもう次のことを考えていた。(たいへんな薄情者である。)

なんで私はこんなに日記コンテンツが好きなのだろうか? もうちょっと言うと、なんで日本人はこんなに日記コンテンツが好きなのだろうか?
いきなり主語がどデカくなってごめんなさいだけど、間違ってなくない?

日本人って、日記好きじゃない? え、そんなことない? じゃあ主語を私に戻すと、私が他人の日記、しかも「えらい人が書いた、すごい日記」じゃない日常の記録、が好きなのかと言うと、他の人が日々なにを考えて、感じて過ごしているのか、にすごく興味があるんだと思う。

おもえば私は、公共の場で人を観察するのも好きだ。(もちろん、ジロジロは見ないよ。)あの人は今日の夜ご飯なにを食べるんだろう?今、どんなことで悩んでるんだろう?何をしてる時が幸せなのかな? などと勝手に妄想する。最終的に「幸せだといいな。幸あれ〜」と思うところまでがセット。

周りの人の頭の中・生活を覗いて勝手に共感したり、関心したり、驚いたり、することが単純に楽しい。にやっとする。

人の頭の中と生活をのぞいてニヤつく。こう書いてみると、完全に変態じゃん。でも、へんたい、は一文字変えただけで、へんあい(偏愛)に変身する。どちらも偏った趣向を持っていることを意味するけど、両者の間には確固たる違いがある気がする。それは「愛」なのかもしれない。

変態は自分の愛する対象物を使って【自分の欲望を満たす】のが目的だけど、偏愛は対象物に【愛を注ぐこと】が目的。つまり、愛するという行為そのもの、がリワードなのである。

そうか、私が人の頭の中と生活を覗いた時に感じる「ニヤッ」の正体は「愛おしいぜ、ニンゲン〜」って思う気持ちなのかも知れない。

いいじゃん、いいじゃん、お互いとその営みを愛おしみあう日記コンテンツ文化。いとおかしだね。

*この日記エッセイの題名は サンボマスターさんの楽曲「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」をパクリました。とても良い曲なのでぜひ聞いてください。

https://youtube.com/watch?v=izlKehxIEcA%3Fsi%3DN1Q0Y4o2nMRIV4-V

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